白山道場師家 南華室
小池心叟老大師(道庵心叟)92才 経歴②
・平成11年(1999)85才
春、副住職 政栄宗禅師 辞任、平成12年(2000)霊樹院住職に転住(平成27
年洪福寺転住)副住辞任により心叟老師を手伝う者が不在となるが、3月末に玉泉寺
住職 鈴木省訓師(現閑栖 ☞平成25年より松ヶ岡文庫5代代表理事に就任) が駒沢
女子大学の職を辞め4月より老師の法務を助けることとなる。
省訓師は以前より大学通勤の途中に時折白山に寄り、大学業務の兼ね合い等諸々の都合
により大学休業時は長期休参する等し不定期に通参していた。
そのような関係から心叟老師への法務加担を申し出ることとなる。
また、省訓師は大学を辞めたこの頃、法務加担と共に通参するようになる。
〜政栄宗禅 副住職辞任の経緯〜
平成11年春、政栄宗禅師副住職が突然辞任するという話が白山の責任役員(田中氏)から
濟松寺に電話がありました。
急遽白山に伺い、老師も高齢故是非思いとどまって欲しいと再三再四お願いをしましたが、
聞き入れられず、宗禅師は心叟老師を置いて出て行かれた。
老師夫妻と新命副住職夫妻との間に行き違いがあったのでしょうか、沢山の理由を副住職は
述べておられましたが、白山の老師御自身も副住職を白山道場の後任にすべく白山の寺の檀
家を新たに増やしたり(海会搭の建立)、室内の面でも特別に心を砕かれていました。
その後、裏にお住まいの老師を訪ねて経緯を報告した所、老師は相当気落ちしてお疲れであ
ったが、覚悟はされていた御様子でした。
《 東福寺管長と円覚寺管長の対談☞(禅文化234号 2014年掲載)》で、心叟老師は弟子
を「茶碗と一緒」「二歩留まり」と表現され、晩年に一番弟子と末弟(東福寺管長と円覚寺
管長(心叟老師は実際にはまだ下に複数の弟子をとっていますが))以外は駄目だったと両
師におっしゃっていたと話されております。
・平成12年(2000)86才
5月 白山道場開単百年の☞記念法要厳修 ☞「白山道場開単百年史」出版刊行
鈴木省訓師(玉泉寺住職)田中勉氏等、直心会会員が中心となって推し進められる。
百年史は法要記念品として配布される。
・平成14年(2002)88才 11月5日 老師米寿
・鈴木省訓師によると、この時期
白山道場龍雲院 責任役員に円覚寺僧堂老師(現管長)横田南嶺老師が就任される。
心叟老師夫妻との親しい関係から省訓師の息子達が心叟老師の直弟子となり、僧堂に掛搭
する。
・5月 濟松寺先住職13回忌斎会の導師を務める。
>先住職13回忌斎会に際して、心叟老師は導師の香語を唱える際に偈を失念されて
しまい立往生されていた。貼ってあった香語の奉書を剥がし、老師に手渡すことにより
事無きを得たが老師に於いてこのような事は以前ではとても考えられなく、88才の老師
の体調は往年に比べ芳しくなくなっているのは明らかであった。
省訓師の話では、室内においてもこの頃には既に乱れがあり、同じ公案を行ったり来たり
していたそうである。
・白山道場ではこの頃 、心叟老師の夫人も交え 玉泉寺和尚を中心とした会員(入室・
参禅中心の会員)と直心会幹事(サロン的な坐禅会を目指す会員、寺の責任役員中心)
会員同士で対立が起きている。
心叟老師の米寿記念に於いては「小池心叟老師の一転語」と☞「禅門引導の手引き」が
これら別々のグループにより作成されている。
>心叟老師は、ある時時節のご挨拶に伺った私、岩田文雄に
「彼らに責任役員の心得を話して欲しい」とおっしゃいました。私は失礼かと思いましたが、
「私が話すより老師御自身が直接彼らに話された方がよろしいのではないでしょうか」と
申し上げました。その話はそれで終りとなりましたが、この頃の老師はこれら白山道場関係
者による内紛を大変苦慮していたようである。
・平成15年(2003)89才
>暮の挨拶に伺うと、老師にお目にかかっている所へ老師夫人が来られて、
「老師は塔婆の字も私が手をもってあげないと書く事も出来ない」と述べられていた。
又、唐突に夫人が「老師良かったですね、法嗣が二人出来て」と老師に話しかけていました。
老師はその問いに対して一言もお答えになりませんでした。
玉泉寺和尚は公案について私に度々尋ねてきていたので、室内の内容やどの辺りを調べて
いるのかははっきりと知っていました。この時期に室内が了っているとしたらあまりにも
進み方が異常なので、この時の夫人の言葉には一瞬何の事か分からず、そして驚愕致し
ました。
また、これ以前も以降も老師より新しい法嗣について私自身に直接話された事はありません。
・平成16年(2004)90才
>秋のある日、玉泉寺和尚より「白山の老師の室内の代参をやっている。事後承諾を」
と云う電話があった。室内に関しては何事も心叟老師次第なのですが、それまでに幾度も
心叟老師とお話をする機会がございましたが老師より玉泉寺和尚が室内を罷参している
という事は一言もお聞きしていなかったので、この電話での玉泉寺和尚自身による私への
事後承諾には大変な違和感を感じました。
・平成17年(2005)91才
>心叟老師の現状から、白山道場龍雲院の後継者問題が浮上してきた 。
法務を加担していた玉泉寺和尚は既に自坊を息子に譲り、龍雲院に出るつもりであった。
しかし6月、濟松寺に玉泉寺和尚より白山の後任住職に自分が就くという件が駄目になって
しまったという趣旨の電話があった。
>また、龍雲院の責任役員でもあった横田南嶺老師(円覚寺管長)は常々、玉泉寺和尚が
龍雲院に就くことを気にしておられた。
7月の初め、近隣和尚の集まりで、円覚寺派のある老師が「玉泉寺和尚が鎌倉の老師
(横田南嶺老師)を訪れて「白山の老師から一枚もらった(法を嗣いだ)ことを認めてくれ
るように」と云って来たが、全く法系が違う老師に嗣法した事を認めろとはどういう事か、
全く理解できない」と怪訝そうな顔をされおっしゃっていたが、玉泉寺和尚と横田南嶺老師
との間で、この時期この件で問題があったのだろう。
>8月23日、龍雲院の老師の後任問題が話し合われた。当初、私にも参加するようにとのこ
とであったが、どういう訳か後で報告に行くから出席しないでよいということになった。
その日の午后、九州の老師(現東福寺管長 遠藤礎石老師)と鎌倉の老師(横田南嶺老師)二
人が濟松寺に来られた。
結果は玉泉寺和尚を代務者とする。ただし、老師存命中の一代限りでその後は改めて話し合
うとのことであった。
その折、他派の事に口を出すなと周りの和尚にも云われてましたが、私は只室内の事は、
これは住職問題とは別の重要な事なので、二人の老師に玉泉寺和尚の室内の状況を申し上げ
ました。
二人の老師はそれを耳にすると、「(玉泉寺和尚は)超天才だ」「その事(玉泉寺和尚の室内
の状況)を他にもいいひろめるように」とそれぞれおっしゃって帰られました。
>9月初め、龍雲院の法類和尚の話では、玉泉寺和尚の代務は一年で、その後住職にする
ということになっていたという。私の両老師から受けた報告は何故か少々違っていた。
>11月に入って鎌倉の老師から濟松寺に電話があった。内容は (( 九州の老師から
玉泉寺和尚に龍雲院から手を引くように話があり、代わって鎌倉の老師が龍雲院を兼務する
ようにとお達しがあった )) ということであった。
8月から11月の間に一体何が有ったのか知り得ませんが、最終的に☞鎌倉の老師が白山の寺
を兼務される事となった。
・平成18年(2006)92才
>5月9日白山の寺の施餓鬼会
白山の老師は鎌倉の老師や雲水の介添えで出頭寺院の控えの間に挨拶にこられた。
笑顔で応対されていたが大変弱々しかった。この時が私が老師と会った最後の日となった。
>7月の初め、白山の寺へ中元の挨拶に伺う。
留守の和尚(白山の老師の弟子)が「老師の容態が急変して入院された」といった。
とにかく和尚に中元をあずけて帰り、翌日白山のお寺に見舞いを届けた。
その日の夕方老師夫人より電話があり、私が老師の入院の事をどうやって知ったのか
とがめるような口調で尋ねられ、また老師の入院先の病院名も知らされなかった。
>10月18日 私が円覚寺派平安院で行われた落慶式に出頭した際、同じく平安院に来ら
れていた鎌倉の老師からも「(白山の老師の件に関しては)御放念下さい」と言われ、
これ以降私は白山の老師が遷化するまで老師の周囲から遠ざけられることとなった。
>12月8日 白山の寺に年末の挨拶に伺い、留守の和尚に預けて帰る。
翌日12月9日 白山の老師が遷化されたと鎌倉の老師より連絡がある。
92才。「道庵心叟」。
>白山の老師との法による師弟関係以上に、長年の付き合いや人間的な情により
老師が遷化される前にお目にかかりたいという思いがありましたが、白山の老師の法(暗券)
や後継を巡る関係寺院和尚によるいざこざの面妖さから白山の寺には関係したくないという
思いもありました。
しかし、遷化される前日にお寺に挨拶に伺っているにも関わらず白山の老師の容態のことは
何ひとつ知らされず、病院の名前も最後迄知らされませんでした。心叟老師とお寺を巡る様々
な問題があった事のようですが、周囲の方々には不可思議な対応がなされた事に対して色々
と残念な思いがあります。